竹と防災の歴史

2026.9.6  竹林便り 

(京都市洛西竹林公園 展示パネル)

「竹づくし文化考」(1986年)著者 上田弘一郎氏 (発行所 京都新聞社)より以下抜粋

いつだったか竹林の立つ堤防が壊れたとか、竹林のあるところに山崩れが起きたなどと、鬼の首をとったかのように知らせてくれた人があった。竹林でさえあれば、どんな竹林でも強い防災力があると思うのは、とんでもない間違いである。
「実例」のところどころで述べたように、強い防災力のある竹林とその管理方法は、次のとおりである。
①竹林は常に若くて良い竹を立てること。これは最も大切な伐りすかしであり、ふつう、若い竹というのは、大きくなる種類では生えてから5~6年以下、細い竹の種類は3~4年以下で、これ以上の年齢の竹は老齢であり、毎年か隔年に伐って利用する。すると元気な良い若竹がたくさん生えてくる。枯れるまで立てておくと、生産力が衰え、防災力が弱くなる。長く立てておく木の林とまったく趣を異にする。だから竹林では毎年、老齢な竹を伐りとらねばならないが、木の保安林は禁伐となることを知っておきたい。このことは庭竹づくりでも同じである。

②面積について。
堤防を護る竹林は、幅20メートル以上、長さは長いほどよいが、とりわけ流れの強く当たる部分を中心に防備を固めることが大切である。山崩れを防ぐには、少なくとも1ヘクタール(100メートル四方)の竹林が望ましい。地震に対しては、平地では10アールでも効果があるが、多くの人の逃げ場には狭い。傾斜地では山崩れのことを考えねばならず、1団地の竹林は1ヘクタール以上が必要である。

『河川の堤防を護る竹林と水害防備の実例』

1.昭和28年6月の大水害。この時の台風は全国を襲ったヘスター台風である。各地の河川氾濫でかつてない大被害をもたらした。このとき私は助手の協力を得て、全国の主要河川を先人の偉業を偲びながら調べて回った。この結果は「水害防備林」に発表した。かいつまんでいうと堤防決壊で大きな被害を受けた120か所のうち、100か所は川端に竹林のないところであった。沿岸に竹林のあるところは被害を免れたが、このうち竹林があっても被害を受けた20か所は老竹や細竹の多い悪い竹林で、とりわけ竹林の幅が狭いか竹林の中を伐りひらいた横断の道路があるところであった。沿岸に幅広い良い竹林で固められたところは安全で被害がなかったのである。

2.昭和51年9月の台風で、岐阜県の長良川と揖斐川のコンクリート堤防も決壊して甚大な被害をうけたが、川岸に良い竹林のあるところは決壊を免れた。(岐阜県庁、河合好男氏調べ)。

3.昭和57年7月23日、長崎を襲った台風において、長崎市東部を流れている八郎川は氾濫、堤防は決壊して大被害を受けた。しかし、沿岸のメダケの群生するところは堤防は無事であった。そして竹林の威力を見せつけ、住民に感動を与えたのである。

4.昭和57年8月1日の10号台風では、京都の保津川の氾濫で、亀岡市では竹林のない堤防は決壊して大被害を受けたが、マダケ林のあるところは決壊を免れ、被害はなかった。(池田彰夫氏調べ)。

『山崩れ、地すべりを防止する竹林とその実例』

1.昭和43年2月21日、宮崎県えびの市と鹿児島県吉松町を中心に襲った大地震のとき、各所に山崩れが併発した。そのとき大規模な山崩れの数は、44か所にのぼり、人家の倒壊は半壊を合わせて1000戸余りにのぼった。こんな大被害であったのに死者が3名にとどまったのは、山崩れのおきなかった竹林に多くのひとが避難したおかげであった。住民はみんな、強い防災機能を発揮した竹林に向かって手を合わせたそうだ。

2.昭和46年6月24日に福井県地方を襲った台風で、小浜市金谷では山崩れに見舞われた。このとき竹林のないところでは麓の1家6人が生き埋めとなった。しかし地つづきに竹林のあるところは、山崩れはなく人家ともに安全であった。

3.昭和47年7月5日の台風で、高知県土佐山田町の繫藤駅付近に山崩れがおきたとき、民家10戸が倒れ、そこに住む人と救出作業に当たっていた人たちを合わせて64人が生き埋めとなり命を失った。しかしこの地つづきには広い竹林があって、ここでは山崩れはおきず、麓の人家は安全であった。

4.昭和57年7月23日、長崎を襲った台風は、長崎市に大被害を与えた。すなわち死者、行方不明を合わせて299名、家屋の倒壊584棟に及ぶ未曽有の大災害であった。このときの竹林の防災力について、長崎県庁林務課(前田春人氏ら)の調べによると、崩壊地20か所(面積1.7ヘクタール)にのぼったが、ここは竹林のないところであった。竹林(モウソウチク・ハチク・メダケ林を合わせて6.2ヘクタール)のあるところは、1部被害があっただけで、大部分が安全で、竹林によって被害を免れた。

『防風竹林とその実例』

1.鹿児島県南方の離島、種子島は、約6万ヘクタールの広さである。私は昭和51年にこの地に行き、竹を調べたことがある。この地は暖かく砂糖の主産地であるが、毎年襲われる台風から護るために、農地を10~20アールに細かく分けて、まわりに竹(リュウキュウチク類)を植えつけ防風竹林としている。そしてこれによって農地や農家が台風の被害から護られており、さらにこれから毎年適当に伐りすかされる竹は、土壁の下地、筆の軸のほかに、タケノコは食用に利用されている。

2.宮崎市郊外の人家のまわりには、竹(ホウライチク・カンザンチクなど)が植え付けられている。これは台風から人家を護ろうとする昔からの知恵で、強い自然力の利用に頭の下がる思いがする。

3.台風に最も強いのはモクマオウ(木麻黄)という木だといわれる。しかし、さらに台風に強いのが竹であることを台湾で見たのである。1962年に台湾の西海岸がかつてないひどい台風に襲われ大被害を受けた。その直後に私は現地を訪れたところ、モクマオウがポキポキ折れているのに長枝竹(チヨウシチク)はびくともせず農家を護っている健気な姿をみて、竹の強さに驚いたのである。

『地震のときの避難竹林とその実例』 ※現在生きておられる人から昭和57年に体験談を求めた。

1.関東大震災 小田原市と秦野市方面での体験談。大正12年9月1日に関東を襲った大地震である。小田原市の損害は、死者27671人、焼失家屋7万戸、全半壊126000戸、ほかに山崩れや津波など、このとき昔からの名言「大地震のときは竹やぶへ逃げよ」を信じて竹林に逃げたものは、みんな命が助かった。秦野市では、行政指導で多くの人が竹林に逃げ、これらの人はみんな無事で安全であった。

ただ小田原市でも、秦野市でも、竹林についての一致した感想は、傾斜地は山崩れの恐れがあるので、広い面積の竹林を選ぶこと。海辺の竹林は津波の危険があるので避けること。竹林は良竹に富む竹林ほど安全なので、日ごろ竹林改良の行政指導をしてほしい。石垣のそばに避難していた人が石垣の倒壊で命を失った。もし竹の生垣であったら壊れないので、命は助かったに違いない(『関東大地震思い出集』小田原市石橋公民館、『地震と戦争の記録』小田原市江之浦自治会と公民館、『関東大地震体験記』綿貫清氏提供)。東京では竹林逃避は聞かないが、被服廠跡へ逃げた4万人の熱風での焼死を想起したい。

2.安政大地震  安政元年(1854)11月4日、東海地方でおきた地震で、静岡県周智郡(現在、磐田郡)の被害は死者60人、負傷者無数、焼失戸数160戸、土地の陥没数10か所、堤防は壊れて平地となった。震度はマグニチュード8.4。 周智郡上平山村にある「居林」という竹林に逃げたものは、すべて命が助かった。『増田家文書』(延宝4年1676)によると「居林」の名は住居を護る意味で、20戸の所有竹林であった。毎年、間伐の竹材を売り、タケノコを食べて生計をたてていた。現在は心なき為政者により伐り荒らされている。(増田貞雄氏が祖母より体験談を聞かれたもの)。

3.三河地震  愛知県三河地方に昭和20年1月13日おきた地震。このとき2名の体験談によると、深田作二郎氏は豊田市で遭難。「地震のときは竹やぶへ逃げよ」と聞いていたので、近くの竹林へ逃げた。竹を伐って床にし、その上に古板をおき、テントをはって安心して寝ることができた。

杉山昇一氏(名古屋市)は志願兵として名古屋の中部陸軍歩兵部隊に入隊しているとき、突然の大地震で、四つばいとなって道端の竹やぶにやっと逃げこんだ。辺りの家は倒れるし、道には大きな穴ができたが、自分は竹やぶに逃げこみ難を免れた。竹やぶに入ると、外は強く揺れているのに、あまり揺れを感じず立つことができ、父母から聞いていた「地震がおきたら竹やぶへ逃げよ」の貴重な体験を味わうことができた。(正村史郎氏より提供をうけた『三河地震体験記録集』より)。

4.姉川地震  明治42年8月14日、滋賀県東浅井郡を中心におきた地震で、マグニチュード6.9。主な損害は死者35人、重傷者111人、全壊戸数972戸、半壊戸数2367戸。現在生存の体験者、西河ナツさんの話によると、木と竹の混じった林に逃げたものは、みんな命が助かったが、他のところへ逃げたものには、死んだものがあったとのことである。(隅田真佐子さん提供の『県地震対策調査報告』による)。

5.えびの大地震  昭和43年2月21日に宮崎県えびの市と鹿児島県吉松町を中心に大地震がおき、大きな被害をうけたのである。震度はマグニチュード5.7-6.1。被害は死者3人、負傷者42人、家屋全壊368戸(主として山崩れによる)、半壊636戸、さらに特記したいのは大規模な山崩れが44か所もおきたことであった。このとき避難指導よろしきを得て、多くのものが竹林に避難して難を免れた。このことに注目すべきで、この大地震で家屋の倒壊が多いのに、死者の少なかったことである。これは山崩れのおきない広い竹林に、多くの人々が避難したからである。そして山崩れは竹林の外方におき、竹林の中にはおこらなかった。もし竹林がなかったら、地震と山崩れの二重パンチをうけて、測り知れない惨害となったに違いない。これを思うだけで、身の毛がよだつ。ことに南九州は山崩れのおきやすいシラス土壌であり、防災に強い竹林の機能を忘れてはならない。竹林に避難した人々は思い思いに雨戸やビニールを敷くなどして、安全な仮小屋ができた。しかし竹林の外側では大きな石が落下し、麓の人家が倒された。この時の大地震によって、竹林の強い機能を見直したのである(鹿児島県林業試験場、浜田甫氏調べ)。