Shop&Gallery竹生園は筍料理で有名な錦水亭の建物の一つで、数ある建物の中でも比較的新しい1970年に建てられた元旅館「竹生園」の中にあります。
錦水亭は明治14年(1881)に創業を開始し、長岡天満宮の八条ヶ池を取り入れた数寄屋造りのお座敷が今も当時のままに点在し、美しい景観を作り出しています。春は梅、桜と続いた後に、真っ赤な霧島つつじが天満宮の参道を染め、八条ヶ池に映りこんだ景色が多くの人々の目を楽しませてくれます。
実はこの八条ヶ池にはその名の由来となった歴史があるのです。
江戸時代の少し前、慶長5年(1600)に八条宮家(のちに桂宮家と改称)の初代智仁(としひと)親王が、細川幽斎(藤孝)から古今和歌集の奥義について説明を受ける「古今伝授」を京都の自邸で受けました。
しかしまさに関ヶ原の合戦の真っただ中だったので、幽斎は丹後田辺城(現在の舞鶴市)に籠城し、古今伝授は中断されました。智仁親王は開城を進める使者を送り、死を覚悟した幽斎は伝授終了の証明状を与えました。
その後、智仁親王の働きによって田辺城は開城され、都に戻った幽斎はたびたび八条宮屋敷を訪れ智仁親王はじめ、公家や僧侶、連歌師などとの交流を深めました。
そしてこの時の建物を八条宮家の領地があった開田天満宮(現在の長岡天満宮)に移したのです。以後「開田御茶屋」と呼ばれて大切に受け継がれてきました。
元々開田天満宮は菅原道真公を祀った神社で、道真公が生前に在原業平と共に詩歌や管弦を楽しんだ場所でもありましたが、八条宮家の雅趣と教養に基づき社観が整備されていったのです。そして八条ヶ池は二代八条宮智忠親王によって築造されました。
しかし、明治維新になると開田村は宮家の領地ではなくなり、開田御茶屋も解体されることになったのです。そのため細川家はこれらの材を引き取り、大正元年(1912)に熊本の水前寺成趣園に「古今伝授の間」として復元しました。今も大切に保存され見学することもできます。
江戸時代の天明6年(1766)に描かれた「都名所図絵」には開田天満宮と八条ヶ池に面して並ぶ開田御茶屋の様子を伺うことができます。
この名所図絵は当時の観光ガイドマップのようなものですので、これにより洛西きっての名勝として広く知られることになり、多くの旅人や町人が参拝し、八条ヶ池の景色を楽しみながらお参りしたんだろうなと想像されます。
錦水亭はこうした歴史と景観を生かして創業されたのです。
今もこの絵図のままの景観が残され、当時のように多くの市民や観光客の訪れる場として親しまれています。
Shop&Gallery竹生園のある一帯にはこのような歴史と文化が受け継がれているのです。
是非訪れてみてください。